スース〜カルタゴ〜チュニス

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2005/01/31 スース〜カルタゴ〜チュニス 晴れ
1/31 8:30ホテル出発。
今日は盛りだくさんだ。スースの市内観光、グランモスク、リバト見学。カルタゴ遺跡、トフェの墓、アントニウス共同浴場、シディ・ブ・サイドの散策。その後チュニスへ。なお、今までも今後も、写っている海は全部地中海です。念のため。
スースはサヘル(沿岸地方)の真珠といわれるリゾート地で、その中心は世界遺産メディナ(旧市街)。メディナは昨日買い物をしたので、さっとみるだけ。もっとも、まだほとんどが店開きしてなかった。
メディナにあるグランモスクの建造は 9世紀のアグラブ朝時代。はじめは要塞のような役割だったので、ミナレットがないのだ。
同じ場所にあるリバト(要塞)は8世紀末に造られ、メディナで最も古い建物。登りましたよ38m。
高速道路を抜けて海岸の街に着いた頃雨になったが、大丈夫。降りる頃にはあがっていた。
多分、ヘルグラ(hergla)という街とおもうけど、ここでランチ。意味がわからないがレストランにフォークの絵が2本描いてあった。
ここも海岸沿いで、リゾート地のようだった。ゴージャスな家や、係留されている舟にため息をついた。
2時ごろカルタゴに着いた。首都のチュニスからはバスで20分くらいのところにある。
地図で見ると海に面した入り江を持っていて、交易に適した地形といえる。
ビュルサの丘にはサンルイ教会が、まず見えてきて、その横に遺跡(世界遺産)があった。眼に入るのは、ローマのカルタゴ遺跡だ。
ローマ遺跡の下にカルタゴ遺跡があるのだ。1973年に発見以来いまだ発掘中である。ローマがいかにフェニキアのカルタゴの上に街を作ったかがわかるのだ。
丘の上にカルタゴ博物館があり、多くの出土品が収蔵されていた。一時間ほどだったが、時間不足だわぁ。
収蔵品は別館で公開しました。
トフェの遺跡は、フェニキアのカルタゴの遺跡で、幼児の墓ばかり、並んでいた。あたりには、もっと多くの墓があるようだが、人家が建っているので、発掘しないそうだ。
フェニキアのカルタゴ港を見ながら、アントニウスの共同浴場へ向かう。
アントニウス(アントニウスピウス)の共同浴場は、先に見たザグアンのローマ水道橋により、引水。
つながってきたなぁ。スベイトラでも名前が出てきたね。
2世紀建造なのですが、まぁ、よくできていて、図面を見ると、現代の健康ランドか、フィットネスジムかと思うくらいです。
その後、チュニジアンブルーで有名な、シディ・ブ・サイドへ。ここもチュニスから20分くらいの丘の上にある街。
街並保存区域に指定されていて、窓、入口のブルーがきれいだ。そして、壁は白。美しい!。名物はバンバローニ(ドーナッツ)≒¥30〜40
有名な最古のカフェ・デ・ナールでミントティーを飲んだ。なりきりチュニジアン。
きれいな、夕焼けを見ながら、ホテルに入り、夜はベリーダンスを見ながら食事だった。ベリーダンスは、いまいち。
電源:ホテル(チュニス)はCタイプのプラグを使用。変圧器も使用。
食事後、出発まで砂浜に出た、
要塞の後だそうだ。
朝早いので、砂浜に鳥の足跡が・・。
これで、朝8時頃です スース市内の月曜の朝
メディナは、ほとんどがまだ店開きまえ グランモスクの中庭
ミナレット(尖塔)がありません

この外側の階段も要塞の名残りでここ独特のもの

この搭(リバト)がミナレットの代わりにも使われた
今は、イスラム教徒に礼拝の時刻をつげる呼びかけはここから
高さは約38m
入口です 柱が左右違いますね 暗い細い螺旋階段を登ります
登りきると、せまい、せまい。おしあいへしあいだ。
それでも、スースの街が一望できるので是非登るべし。
搭から降りてきた、城壁の上のところからの眺望 城壁の上
高速道路に入ります
出口では雨になってきた、マウスオン
右手に海を見ながら北上します 少し明るくなってきたわ
ランチを摂る街の到着 マリーナへの入口
内側はマウスオン
人影はあまりなかった
船のことは不案内でよく判らないが、いい船だということはわかる
サンルイ教会フランスが1890年建立 ここがビュルサの丘
1881年フランスが統治宣言した後ということですね
サンルイ教会のすぐ横に遺跡はあるのだ
こんなのがお出迎え、拡大はマウスオン


人が立つ位置からの画像、マウスオン
カルタゴは前814年にフェニキア人が作った街で、その興隆を妬んだローマに狙われ、3度の戦争(ポエニ戦争)により、前146年壊滅。このときに徹底的に破壊され草木も生えないように塩をまかれたそうだ。その後、前29年ローマの植民地となり、ローマはカルタゴの街の上に街を建設。、2世紀には巨大建造物が造られた。7世紀にはアラブの進入によって首都がケロアンに移り、その後1057年にチュニスに首都が移って、カルタゴは廃虚となる。
したがって、フェニキアのカルタゴと、ローマのカルタゴがあるわけだ。今回みようとしたのは、フェニキアのカルタゴ。
この高い塀の中に大きな石を置き、埋めてしまってその上に街を造ったのだ これは、ローマのカルタゴ
弾丸 石です、博物館の前にi置いてあった
大きなスプーンのようなものに置いてパチンコのように飛ばした、
映画で見たことありませんか?
フェニキアのカルタゴ
ローマのカルタゴはマウスオン
(博物館資料)
ローマ遺跡の下からフェニキアのカルタゴを発掘する様子
発見当時の様子マウスオン(博物館資料)
発掘物 フェニキアのかローマのかわかりません
変わった形の水差し?
ガラスの壷もあったマウスオン
コイン 説明がないのでどっちのだか?
青銅製の桶、バケツかな?マウスオン
地図はCarthageと表記してあったけど・・・。 トフェの遺跡
幼児の遺骨が300体ほど発見されたことから、フェニキア人は、「幼児生贄」の習慣を持っていたのではないかといわれている。

この中にも墓がある 入口Zoomマウスオン

穴の内部 祭壇のような物もあった
フェニキア・カルタゴ時代の軍港跡 縦500m、横300m円形、現在も港として使われているのだ
当時は220隻もの軍船を収容できるカルタゴ海軍の根拠地で、二重の防壁で堅固に固められていたとのこと
アントニウスの共同浴場見取図
両脇の四角は、ジム、中心手前の大小の8角形のようなものは浴場、すごいね
共同浴場全景、向こうは地中海。自家合成です。
2世紀アントニウスピウス建造、総面積3.5fというローマ世界で三番目という規模を誇った。2階建ての建物に100を越える部屋が2階部分に配置され、サウナ、プール、水風呂、温浴風呂など、色々な施設があった。床にはモザイク、彫刻の施された大理石の柱、贅沢な造りになっていた。水は60km離れたザグアンから、132kmの水道橋で運ばれた。
海の方を見て、左の方は大統領官邸がどーんとあり、銃を構えた兵がいて、絶対にカメラをむけるなと注意があった。カメラを没収された観光客もいたそうだ。無理よねー。遺跡の全体を撮ろうとすると、少しひっかかるんですね

中央の柱は、後から置いたもので、海から見たときに観光客に、「あれがアントニウスの共同浴場」というための目印だそうです。
右手前は図面で言うと、一番前に張り出した8角形で温浴風呂になる 中央の木の横からの画像マウスオン
拡大リンクあり 遺跡前の民家の郵便受けと番地表示
この数字のタイルはお土産品で売っていた
 いいと思うわ
シディ・ブ・サイドに向かいます シディ・ブ・サイドの街並み、美しいです

突き当りがカフェ・デ・ナール、さすがに観光客が多かった 上がカフェ内部、マグレブ風のエキゾチクな店内、コーヒーは1.6TDだった。
下は、カフェから街の眺望
ドアや窓の色もきれいだが、作りもきれいだ チュニスに向かう 夕日がきれい
ホテルテラスからの夕日 夕食 これがメインたらです。黒いのはムール貝、白いのはキノコ
客の前に出るのにえらく時間がかかった
私の席が一番にでたけれど、食べ終わっても半分くらいしか行き渡ってなかった
その理由は、やり方が効率的でないのだ
3人でおしゃべりしながら一人が、くりぬき、皿に載せる、をするので一人前に時間かかりすぎ
これってアラブ式ですかね

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ごらんいただき、ありがとうございました。